尼崎旅の新連載「尼崎の記憶に触れる旅」まちにある戦争体験をスタートします。
目次
新連載【尼崎の記憶に触れる旅】~ まちにある戦争体験 ~

機銃掃射の跡
今年の8月に、終戦から77年を迎えます。戦争の記憶を持っていらっしゃる方はどれくらいいるのでしょうか。
単純に考えて、当時10歳だった方は87歳、当時20歳だった方は97歳になっています。言葉通り「命懸け」で国のために戦っていた状態であったこと、空から爆弾が落ちてくる日々があったこと、食料や物資が不足していることを身をもって体感する時代であったことは、想像が及ばないところも大いにあります。
「知ろうとすること」が何かに繋がる
全てを知ることはできないし、知ったつもりになるのは違うけれど、それでもまずは知ろうとすることが、何かに繋がるのではないでしょうか。歴史の教科書で学ぶ戦争とは異なり、市井に生きた名前の残らない人たちの経験や思いは、誰かに共有されることで生き続けられると思っています。
そこで、戦時下の記憶にそっと触れさせてもらう企画をスタートします。平和の大切さや歴史の文脈といった大きなテーマではなく、真摯な気持ちでお話を聴いてみませんか。
尼崎の戦争について、調べに歴史博物館にいってみた

尼崎市立歴史博物館
今回は、実際にインタビューに行く前の準備として、尼崎の戦争について尼崎市立歴史博物館で調べにいってきました。
尼崎の歴史がわかる資料がいっぱい!
尼崎市の公文書館機能であるあまがさきアーカイブズには、歴史的公文書をはじめ、尼崎地域の様々な史料が収集・保存されています。そこの一角にあったのが、「戦争体験コーナー」。行政発行の資料に加え、疎開生活を含む戦争体験をまとめた本などもしっかりおいてありました。
尼崎の戦争。10回の空襲

出典:総務省HP<尼崎・本町通焼け跡>(焼け野原となった本町通商店街) 開明町付近、『ふるさと尼崎のあゆみ』より
尼崎の上空にはじめてアメリカ軍の飛行機が飛んできたのは、1945年3月13日から14日にかけての夜のことだったそうです。大阪を狙った編隊の一部がそれて爆撃し、中在家、北城内、西本町などが被害を受けました。その後、尼崎では終戦までに10回の空襲がありました。市の文書では、空襲で亡くなった方は479人、けが人は709人、家屋を失った人は42,094人だったと記録されています。
まちも工業地帯も

出典:総務省HP 尼崎市域戦災被災地と主要軍需工場、6月15日空襲の攻撃中心地点と想定燃焼範囲>
被害が大きかったのは6月にあった2回の空爆で、6月1日には西長洲・金楽寺・開明・杭瀬・梶ヶ島、6月15日には杭瀬・大物・城内・開明・長洲・浜・下坂部・難波・立花などが被害にあいました。人が住む町が狙われたことから、何百人もの方が亡くなったそうです。
また、7月と8月には武庫川の河口近くにあった石油施設や発電所が破壊されました。
のん
尼崎駅周辺のモニュメント紹介
尼崎のまちのなかには、平和を祈念するモニュメントがあります。普段見かけていたものの、どんな願いがこめられていたかは案外知らないもの。今回は、そのうち3つをご紹介します。
あまがさき平和モニュメント「Molter」
阪神尼崎駅の駅前広場にあるモニュメント。市民からの賛同金を基に、2005年にデザインコンぺが開催され、選ばれたものだそうです。
題名の「Molter」とは、羽根や毛が生まれ変わる時期の動物を意味し、「脱皮する平和」というテーマが掲げられています。
平和の女神像
こちらも阪神尼崎駅の駅前広場にあります。国政的な非政府組織である世界連邦運動協会の尼崎支部創設20周年を祈念した1972年に建てられたものだそうです。
機銃掃射の跡
旧開明小学校の南西の塀に残る銃撃痕。1945年6月1日の空爆時に飛来した戦闘機の跡であると考えられているそうです。
市内に現存する数少ない戦災モニュメントとして、看板も付けられていました。
のん
次回からインタビューに行きます!
今回は、インタビューに向けての事前の準備として、尼崎の戦争について調べてみました。まだまだ一部ではありますが、知らなかった歴史に少し思いを馳せられた気がしてわくわくしています。
次回から、実際にインタビューに行き、様々な方の戦時下の記憶にそっと触れさせてもらいます。どんなお話に出会えるのでしょうか。これから一緒に旅にでましょう。
「あなた」のお話を聞かせてください
あなた自身や、家族から聞いた戦争体験や、もしお近くにお話してくださる方がいらっしゃいましたら、ぜひご紹介いただけますと嬉しいです。
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